2017年09月20日
惟喬親王伝説と木地師の里
9月の初めに名古屋の仲間に無理を言って、前から気になっていた東近江の木地師の里を訪ねた。
いつも通り米原駅で集合、久しぶりに醒ヶ井のおふくろバイキングに向かう。
お昼には少し早いので途中岩脇(いをぎ)の戦争遺跡蒸気機関車避難壕と善光堂を見学。
日ごろ小食の私でもここのバイキングは仲間が驚くほどよくたべる。
お腹を一杯にし、高速で湖東三山スマートインターを目指す。
百済寺から県道229、34号線を走り、対向できない深い山の中を分け入るようにしばらく登ると少し広いところに出る。
山をおりた猿がたむろする道路を過ぎると右手に鳥居が見える。
ここが惟喬親王御陵
この場所の奥は筒井千件と呼ばれる木地師集落が有ったところといわれており、住居跡と思われる石垣も所々に残っている。

惟喬親王幽棲之跡の碑
明治初年に廃村のため蛭谷に遷座した旧筒井神社の境内と思われるところに、石板に筒井と刻まれた小さな祠がある。
ここで毎年7月に惟喬親王祭が行われる。
今も多くの木地師、木工、挽物などの氏子らが全国各地から集まり、お帰りなさいで迎えるとのこと。

木地師資料館の二人挽きの手挽きろくろ
全国に散らばった木地師の様子を記した「氏子駈(狩)帳(うじこかりちょう)」や木地師の身元を証明した「木地師往来手形」をはじめ、多くの古文書や全国各地の伝統木製品などが展示されている。
筒井神社と資料館のある蛭谷は小椋千件と言われた木地師集落の中心地で有ったが、今見える範囲の家屋は5、6軒で、それも土日にだけ帰ってきているようだ。
木地師の歴史は、木地師資料館のパンフレットに次のように書かれている。
貞観元年(859年)藤原良房を背景とする皇位継承の煩いを避けて都を逃れ、愛知川沿いに鈴鹿の山深く分け入り、この地に幽棲された文徳天皇の第一皇子惟喬親王は法華経の巻物の紐の原理から、里人に綱を引いて軸を回転させる手引きロクロを造り、椀や盆を製作する木地挽きの業を伝授されたと伝えられている。
往時は、筒井千件、小椋千件、藤川千件と言われるほど木地師が数多く住んでいたが、中世末期の頃より、材料の原木が無くなると彼らは、次第に全国各地に良質の木を求めて分散していった。
その頃より、この地は、全国の木地師を統括することになり、蛭谷筒井公文所、君ヶ畑の高松御所金竜寺では、諸国の木地師に「山への立ち入り、原木の切り取りは自由という許可証」や、「妻子眷属共々に、諸国の関所を自由に通行できる往来手形」を発行する特権が与えられていた。また、この地から諸国の山々を巡回した近世の氏子駈帳には、実に数万戸の木地師名が記帳されている。

大皇器地祖神社の参道から見る君ヶ畑の里山。
君ヶ畑には、蛭谷の筒井公文所に対し高松御所金竜寺がある。
小椋谷が木地師のふるさとであり、親王の母方紀氏の領地であったことや小椋姓が多いことから、親王もこの地に身を寄せて居たことがあるように思えるが、ブログを書くために色々調べてみると、
惟喬親王は惟仁親王が天安2年(858)清和天皇になられたのち大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任し、貞観14年(872)29才で病を理由に出家、山城国愛宕郡小野郷(現・京都市左京区大原)に隠棲され、(このため小野宮とも称されている)寛平9年(897)2月20日、54歳にて薨去された。
以上が正史とされる惟喬親王の事蹟で、京都市左京区大原上野町に親王の墓と伝える五輪の塔がある。(宮内庁治定)
惟喬親王は風流を楽しんだらしく母静子の兄紀有常の娘婿の在原業平とは特に親しく、その自叙伝ともいうべき伊勢物語(渚の院)では、在原業平とともに水無瀬の離宮や、天野川に近い渚の院で歌宴を催していたようだ。
(小野の雪)では、比叡山麓の小野の里に隠棲した親王を訪ねた業平が「忘れては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけて君を見るとは」との歌を残している。
千年以上前、親王がどんなルート辿ったかは分からない。
親王隠棲の地とされる京都大原などを中心に、湖東一帯のみならず三重奈良まで親王伝説は沢山残っているようであるが、正史には出てこない。
また、ろくろを使い木地物をつくる技術は弥生期に存在し、奈良時代にはすでに職業として成立して木製の百万塔がろくろびきで大量に生産されている。
私にとってショックなのは、伊勢物語(小野の雪)の比叡山麓の小野の里を、何の疑いもなく湖西の小野だと思っていたが通説は京都大原だということである。
プレイボーイの在原業平と小野小町の関係も伝説なのか?

仲間の一人が毎回散策地を俳句にして、見た風景、自然などのありさまを伝えてくれる。
いつも通り米原駅で集合、久しぶりに醒ヶ井のおふくろバイキングに向かう。
お昼には少し早いので途中岩脇(いをぎ)の戦争遺跡蒸気機関車避難壕と善光堂を見学。
日ごろ小食の私でもここのバイキングは仲間が驚くほどよくたべる。
お腹を一杯にし、高速で湖東三山スマートインターを目指す。
百済寺から県道229、34号線を走り、対向できない深い山の中を分け入るようにしばらく登ると少し広いところに出る。
山をおりた猿がたむろする道路を過ぎると右手に鳥居が見える。
ここが惟喬親王御陵
この場所の奥は筒井千件と呼ばれる木地師集落が有ったところといわれており、住居跡と思われる石垣も所々に残っている。
惟喬親王幽棲之跡の碑
明治初年に廃村のため蛭谷に遷座した旧筒井神社の境内と思われるところに、石板に筒井と刻まれた小さな祠がある。
ここで毎年7月に惟喬親王祭が行われる。
今も多くの木地師、木工、挽物などの氏子らが全国各地から集まり、お帰りなさいで迎えるとのこと。
木地師資料館の二人挽きの手挽きろくろ
全国に散らばった木地師の様子を記した「氏子駈(狩)帳(うじこかりちょう)」や木地師の身元を証明した「木地師往来手形」をはじめ、多くの古文書や全国各地の伝統木製品などが展示されている。
筒井神社と資料館のある蛭谷は小椋千件と言われた木地師集落の中心地で有ったが、今見える範囲の家屋は5、6軒で、それも土日にだけ帰ってきているようだ。
木地師の歴史は、木地師資料館のパンフレットに次のように書かれている。
貞観元年(859年)藤原良房を背景とする皇位継承の煩いを避けて都を逃れ、愛知川沿いに鈴鹿の山深く分け入り、この地に幽棲された文徳天皇の第一皇子惟喬親王は法華経の巻物の紐の原理から、里人に綱を引いて軸を回転させる手引きロクロを造り、椀や盆を製作する木地挽きの業を伝授されたと伝えられている。
往時は、筒井千件、小椋千件、藤川千件と言われるほど木地師が数多く住んでいたが、中世末期の頃より、材料の原木が無くなると彼らは、次第に全国各地に良質の木を求めて分散していった。
その頃より、この地は、全国の木地師を統括することになり、蛭谷筒井公文所、君ヶ畑の高松御所金竜寺では、諸国の木地師に「山への立ち入り、原木の切り取りは自由という許可証」や、「妻子眷属共々に、諸国の関所を自由に通行できる往来手形」を発行する特権が与えられていた。また、この地から諸国の山々を巡回した近世の氏子駈帳には、実に数万戸の木地師名が記帳されている。
大皇器地祖神社の参道から見る君ヶ畑の里山。
君ヶ畑には、蛭谷の筒井公文所に対し高松御所金竜寺がある。
小椋谷が木地師のふるさとであり、親王の母方紀氏の領地であったことや小椋姓が多いことから、親王もこの地に身を寄せて居たことがあるように思えるが、ブログを書くために色々調べてみると、
惟喬親王は惟仁親王が天安2年(858)清和天皇になられたのち大宰帥・弾正尹・常陸太守・上野太守を歴任し、貞観14年(872)29才で病を理由に出家、山城国愛宕郡小野郷(現・京都市左京区大原)に隠棲され、(このため小野宮とも称されている)寛平9年(897)2月20日、54歳にて薨去された。
以上が正史とされる惟喬親王の事蹟で、京都市左京区大原上野町に親王の墓と伝える五輪の塔がある。(宮内庁治定)
惟喬親王は風流を楽しんだらしく母静子の兄紀有常の娘婿の在原業平とは特に親しく、その自叙伝ともいうべき伊勢物語(渚の院)では、在原業平とともに水無瀬の離宮や、天野川に近い渚の院で歌宴を催していたようだ。
(小野の雪)では、比叡山麓の小野の里に隠棲した親王を訪ねた業平が「忘れては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけて君を見るとは」との歌を残している。
千年以上前、親王がどんなルート辿ったかは分からない。
親王隠棲の地とされる京都大原などを中心に、湖東一帯のみならず三重奈良まで親王伝説は沢山残っているようであるが、正史には出てこない。
また、ろくろを使い木地物をつくる技術は弥生期に存在し、奈良時代にはすでに職業として成立して木製の百万塔がろくろびきで大量に生産されている。
私にとってショックなのは、伊勢物語(小野の雪)の比叡山麓の小野の里を、何の疑いもなく湖西の小野だと思っていたが通説は京都大原だということである。
プレイボーイの在原業平と小野小町の関係も伝説なのか?

仲間の一人が毎回散策地を俳句にして、見た風景、自然などのありさまを伝えてくれる。
「スカーレット」のロケ地 信楽窯元散策
栗東の旧東海道を歩く
マイナーな歴史散歩② 旧東海道鈴鹿峠
マイナーな歴史散歩① 垂水斎王頓宮跡
8月16日聖衆来迎寺の虫干し拝観
野洲をはじめて歩いてきました。
【歴史講座】1/21(土)~歴史の分岐点大津-古代・戦国・近代《全3回》に参加
千年の美つたえびと養成講座 最終回
栗東の旧東海道を歩く
マイナーな歴史散歩② 旧東海道鈴鹿峠
マイナーな歴史散歩① 垂水斎王頓宮跡
8月16日聖衆来迎寺の虫干し拝観
野洲をはじめて歩いてきました。
【歴史講座】1/21(土)~歴史の分岐点大津-古代・戦国・近代《全3回》に参加
千年の美つたえびと養成講座 最終回
Posted by 爺爺の手習い at 20:49│Comments(6)
│歴史散歩
この記事へのコメント
君ヶ畑、いいですよね~♪
案山子がありましたか?
それなら見てこようかと思います。
案山子がありましたか?
それなら見てこようかと思います。
Posted by sho惑星
at 2017年09月23日 02:18

sho惑星さんこんばんは。
何時もありがとうございます。
案山子はなかったように思います。
神社の掃除をしていたおじいさん(私より少し上?)の話しでは、君ケ畑も十数件だけで猿や鹿のほうが多て荒らすので、ネットで囲っているみたいです。
何時もありがとうございます。
案山子はなかったように思います。
神社の掃除をしていたおじいさん(私より少し上?)の話しでは、君ケ畑も十数件だけで猿や鹿のほうが多て荒らすので、ネットで囲っているみたいです。
Posted by 爺爺の手習い
at 2017年09月23日 21:46

詳しく解り易く説明されていますね。皆さんに惟喬親王の存在を教えていただけて嬉しく思っています。
十数年前親王を知ってから、椀物・蓋物・木地などについて大切に考えるようになりました。職業上ということもあってか和食にはなくてはならないものですから。
京都北区杉坂や大原へも親王の息吹が残されています、土地の人々に暖かく受け入れられ守られておられました。次回ご一緒しましょう。
物を造ると物流が始まり、経済が発達、行政が整い、情報が流れるシステムが見事に見られる資料館は秀逸です。ひっそりと守られていることに感謝!何やら遺産などと観光だけを目的に走り回っている現代人・・・蛭谷集落にはとんでもない遺産がありますね。
十数年前親王を知ってから、椀物・蓋物・木地などについて大切に考えるようになりました。職業上ということもあってか和食にはなくてはならないものですから。
京都北区杉坂や大原へも親王の息吹が残されています、土地の人々に暖かく受け入れられ守られておられました。次回ご一緒しましょう。
物を造ると物流が始まり、経済が発達、行政が整い、情報が流れるシステムが見事に見られる資料館は秀逸です。ひっそりと守られていることに感謝!何やら遺産などと観光だけを目的に走り回っている現代人・・・蛭谷集落にはとんでもない遺産がありますね。
Posted by がり at 2017年09月26日 00:17
ガリさん こんにちは。
HPでの紹介ありがとうございます。
何時も散策のあとは復習をかねて気になる点など調べているのですがブログにアップするのは、もうひと手間いるのでサボっています。
ブログを始めたおかげで行って見て終わっていた散策がより深いものになったので、これからも頑張ってアップしようと思います。
HPでの紹介ありがとうございます。
何時も散策のあとは復習をかねて気になる点など調べているのですがブログにアップするのは、もうひと手間いるのでサボっています。
ブログを始めたおかげで行って見て終わっていた散策がより深いものになったので、これからも頑張ってアップしようと思います。
Posted by 爺爺の手習い
at 2017年09月26日 15:37

絵画展にお越しくださって、ありがとうございました。
お出逢いできて、愉しいお話もできたので嬉しかったです♪
君ヶ畑の神社でお掃除されてた方、わたしも出会った方かも~
案山子の句、ありましたでしょ~
お出逢いできて、愉しいお話もできたので嬉しかったです♪
君ヶ畑の神社でお掃除されてた方、わたしも出会った方かも~
案山子の句、ありましたでしょ~
Posted by sho惑星
at 2017年10月01日 09:49

sho惑星さんこんばんは。
こちらこそ有難う御座いました。
久しぶりに絵を見ながら福山さんとお話ができて感動しました。
案山子の件、同じ日に同じ場所を散策しているのに見えているものが違うのですね・・・!
今度どこにあったのか聞いてみます。
こちらこそ有難う御座いました。
久しぶりに絵を見ながら福山さんとお話ができて感動しました。
案山子の件、同じ日に同じ場所を散策しているのに見えているものが違うのですね・・・!
今度どこにあったのか聞いてみます。
Posted by 爺爺の手習い
at 2017年10月01日 19:42
